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「新●月●全●史」をご購入の皆様へ

 新月の集大成ともいえるこのボックスセットをご購入いただき、本当にありがとうございました。
さて、さっそくですがブックレット内の表記に足りない部分がありましたので、ここにお詫びと訂正をさせていただきます。
申し訳ありませんでした。 新月 花本彰

ブックレット 7P

「新月道」 北山 真
(後半部分「光るさざなみ」の録音中に~ から文末まで)

 新月を観客として観たことが1度だけある。当然ながら時代としてはセレナーデ解散から、私が新月に加入する数年間のいつかである。
  さすがに「鬼」は強く印象に残ったが、他の曲は、きれいにまとまっているなあ…、だった。時々出てくる、サンバやレゲエやファンクといった曲調に「花本の悪い癖が出ている」とも感じた。そして強いて海外で最も近いバンドの名前をあげれば、キャメルかなと思った。この初期新月≒キャメル説はほかの数人からも聞いたことがある。
  メンバーとして参加してしまうと、そういった第一印象であったことは忘れてしまうものだ。とりあえず歌を覚え、自分のものにするのは楽しい作業だったし、海外のバンドのコピーをしていたころのような懐かしささえ感じた。考えて見ると、高校時代からずっと自分の作った曲ばかり歌ってきたわけだし、セレナーデにしても自分の曲でなくとも、出来上がる過程に参加していた。この“完成された曲を歌うという誰もがやっているが、私にとっては新鮮な作業”に没頭したものだ。
  練習時間は膨大だった。正確には覚えていないが、土日の全日と月水金の夜であったと思う。終わって酒を飲みに行くでもなく、喫茶店で彼女の話をするでもなかった。このベタベタしない人間関係は、まさに花本によって構築されたものだ。私はベタベタもけっこうOKなのだが、「そういうことなら、徹底的にノンベタで行こう」と居直った。これは対外的にもそうするということ。これが“新月道”の始まりだった。

 ところで、キーはことごとく私にとって高すぎるもので、地声で歌えるものはほとんどなかった(私は少年合唱団時代はアルト、声変わりしてからはバスバリトン)。しかしながらこれだけ複雑な曲のキーを変えられるものでないことも分っていた。鬼や白唇の声はまったくの作り声で、これこそが私の思う“新月道”にのっとった歌唱であった。ちなみに発熱や雨上がり…が地声である。
  ステージでのパフォーマンス(というか、私のはただの着せ替え人形だが)はまったくもって、ピーター・ガブリエルの影響だ。ナーサリークライムとフォックストロットはCD(レコード)だけを聞いても、ロック史上最高の傑作だが、フィルムコンサートで見た、ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ、ミュージカルボックス、そしてサパーズレディは、まさに奇跡とさえ言える映像だった。そのうち新月が語られるときジェネシスの名が出るようになったが、キャメルからジェネシスにステップアップしたことは単純にうれしかった(キャメルファンすまぬ)。
  歌の部分が終わると、楽屋に引っ込み、次の曲の唱の入りまで出てこないことが多い。当然MC(司会)をやるはずもない。仮にMCとなれる部分でも、極力私はしゃべらなかった。ライブで客は、CDでは感じ取れないより生身の人間に接したいのであろう。しかし私(われわれ?)は極力人間を出さなかった。それが“新月道”を貫くことであると思っていたからだ。
  “新月道”にもとる楽曲と思われる「少女は帰れない」、「パパといっしょに」はレパートリーからはずすことを、私は何度か提案したと思う。そもそもレパートリーが少なく、1曲が完成するのに最短でも3カ月を要するこのバンドにとって、それも難しかったが。

 「光るさざなみ」の録音中に、当然ながら何度も話題となる再結成話に私は「新月は花本のバンドだから」という、これもそれまでに何度も口にしたフレーズで答えた。すると世間の印象は違うという意外な言葉が返ってきた。「新月のイメージを作ったのは北山だ」と。そんな馬鹿なと言いながら、反面そう思う人がいてもおかしくないという気もした。
  ボーカリスト=看板ということだけではない。花本が造ったはずの“新月道”を歩くうちに、いつしか私は薮をはらい、川に橋を懸け、自ら“新月道”を造り、それを歩いていたのかもしれない。

 

ブックレット16P

森村寛(レコーディング・ディレクター)
(最後の一行)

 新月のレコーディングを箱根のロックウエルスタジオで行う計画が進んでいた頃、レコーディングミキサーをロックウエルの宮沢さんにお願いすることになった。それは当然の選択であって、宮沢さんは日本で数少ないプログレッシブロックをよく聴いているミキサーだったからだ。
  宮沢さんと打ち合わせをしていくうちに彼がドラムスの録音をするにあたってマイクに全てコンデンサーマイクを使いたいということでTOPを AKG414、あとのハイハット、スネア、ロトタム、タムタム、フロアタム、バスドラムに全てAKGC451を使用する事になった。その為にAKGC451のマイクに装着する-20dbのアダプターを新たに購入したりもした。
  結局ドラムだけではなくオルガン用のレスリースピーカー(HiにゼンハイザーMD441を2本、LoにエレクトロボイスRE20)以外の楽器には全てコンデンサーマイクを使用した。余談だが、ロックウエルにはハモンドB3が常設されていなかったので、オルガンダビングは新大久保にあるフリーダムスタジオにB3をレンタルして録音した。

 当時(1979年)はまだドラムスにコンプをかける習慣が少なかったが、キックとスネアにはAPIのコンソールにビルトインしてあるコンプレッサーを使用した。もちろんその前後にキーペックスI(世界初のノイズゲート)やAPIのグラフィックEQをかましたのは言うまでもない。タムタムのマイクセッティングも皮の面に対しヘッドを直角にしたかったので、マイクヘッドの角度を変えるためのアダプターもスタジオで用意した。正直エンジニアとしてはタム類をコンデンサーマイクのオンマイクで録音するのには少々勇気がいる。だけど宮沢さんは見事にそれをやってのけ、エッジのある独特なドラムサウンドを作り上げて行った。

 アルバムのミックスダウンを当時開業したばかりの一口坂スタジオに決めたのは、日本で唯一音量のフェーダーだけではなく、echo送りやEQレベルの動きまでも記憶出来るAPIの最新機種の卓を導入していたからであり、新月がその世界初の新機能をフルに活用する日本で初めてのアーティストとなった。それは実にタイムリーなことで大変ラッキーなことであった。
  ミックスダウンでのエフェクターにはAPIの卓にビルトインされているMXRのフェーザーとフランジャーも活躍した。ヴォーカル等随所にこの楽器用エフェクターメーカーならではのドギツイエフェクトがかけられている。
また当時はもちろんデジタルリバーブなどは無いのでリバーブはEMT140を2台とAKGのBX20の3台を使用した。
あとは当時のスタジオには大抵置いてあったEVENTIDEのハーモナイザーやデジタルディレイ、フランジャー。それだけじゃつまらないので私の私物であったマエストロの Sound Effect for woodwindsをミキサーに立ち上げていろいろと使ってみた。これは結構ノイズが多くてまいったけど「科学の夜」や未発表の「少女は帰れない」などのヴォーカルに使用されている。
  また新月のレコーディングでは当時はまだ習慣としては定着していなかった「ドンカマ(クリック)」を使用した。
最初の4リズムを録音している際、ドラムが休む箇所の多い曲はスタジオの中にドンカマだけ鳴り響いていたことがあったのを覚えている。今では良くあることだけど。

 最後に、ミキサーの宮沢さんは若くして他界されました。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

ブックレット30P

殺意への船出パート2 (詩/北山真)
(全文)

この男には 瞳が見えない
この男には 顔さえも

A 青い星で誰かが私を 呼んでる
a 遠い星で待つ君のために 歌う

A 歌わないで 二度と空を 見上げないで あなた
  歩かないで その涙を 流さないで 私に   遠い あなた
a 終わりのない 時間の海 終わりのない 鏡
  腐りはてた マストの陰 錆だらけの ナイフも 眠れ 眠れ

 


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