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1972年まで 音楽への目覚め
1972-1975 バンド遍歴
1976-1977 新月始動
1978-1978 ライブ活動
1979-1979 レコーディング
1979-1981 新月の終焉
1982-2000 個々の活動
2001-2005 再始動
2006から

   
   
  新月史 (文中敬称略)    
       
  1972年まで 音楽への目覚め 花本 彰

 新月のギタリスト津田の友人に、かつて前世リーディングをしてもらったことがありました。その結果、僕はアトランティス時代にはいろんな生命をかけ合わせて喜ぶガシアという気違い科学者だったらしいこと、その後はヨーロッパで教会のオルガン弾きや神父をしていたらしいことなどがわかりました。またユダヤ人、フランス人の血も入り、ラテン系でもあり、とにかく色々な原因や結果が今世に日本で生まれた僕の中にあるようなのです。僕はたまたまそういう経歴らしいですがこれを読んでいるみなさんも、いろいろなところを旅して今ここにいるのだと思います。
  なぜこんなことを新月史の冒頭に書いたかというと、まず僕はこの種の話を聞くと疑いもなく丸ごと信じてしまう性格で、そのことが自分の音楽観、芸術観、もっといえば人間が生きている意味、人間の進化、宇宙の進化(変化?)に対する考え方などに大きな影響を及ぼしていると思うからです。
  そしてもうひとつ言えることは、プログレッシブ・ロックという形態の音に反応する人の多くに、同じ傾向が少なからず見受けられるということです。ですから、このことをちゃんとしっかり考えれば「新月」の存在した理由やプログレといわれる音楽がかつて担っていた役割が、よりはっきりと見えてくるのではないかと思うのです。
  ともあれ、僕は広島県尾道市に生まれました。のんきな次男坊として生まれた僕は5才上の兄の影響を少なからず受けています。兄弟姉妹がいるとそれだけで日常経験の幅が大きく広がります。兄が聞いていたハンク・ウィリアムスやペレス・プラード楽団、トリオ・ロス・パンチョス、年上のいとこが集めていたセルジオ・メンデスやジョビンのレコードは僕の洋楽原体験です。乾いた、せつない香りのするものばかりでした。母はニニ・ロッソや美空ひばりを好んで聞いていました。1966年のビートルズ来日には新しいもの好きの伯父さんが行き、「頭の上をパンティが飛んどった」と興奮ぎみに話していたことを覚えています。
  ギターは、たしか小学校の高学年の頃から弾き始めたのだと思います。やがて当時ヤマハが発行していた音楽雑誌「ライトミュージック」の中に作曲講座を発見し、なんとなく自分で曲を作るようになりました。

 高校に入るとアレンジの面白さにも目覚めます。ポール・モーリアの金管の鳴らし方、レーモン・ルフェーブルや服部克久さんの弦の使い方、そういう部分的なところになぜか耳がいってしまう自分でした。ブラスバンドクラブに所属していた僕は、好きで聞いていたバッハの曲を思い切ってドラム入りの軽音楽にアレンジし、20枚のパート譜を作って学校に持っていきました。これが記念すべき僕のプログレアレンジ?第一作目です。
  この日から僕の部内での立場は一変、クラブ専属のアレンジャー兼指揮者という、えらく水っぽい待遇に格上げされました。そうなると立場は人を作る。いよいよ音楽そのものが面白くなり、管弦楽法などという本を買い込み、管楽器にはそれぞれの楽器の特性で「鳴り」の悪い音階がいくつか存在すること、楽器の音色にも相性があることなどを知りました。

 この軽音楽のアレンジャーというスタンスは、ひょっとして今でも変らないのかもしれません。マンボもジャズもロックも、そのペッタンコな楽音主義的視点で見ていくと、ある意味本質的な部分、つまりその音楽が持っている力の方向性、心や体のどこに効くのかが、見えてくるのです。
  一方、エレキバンド!も中学時代から続けていました。毎日暇にまかせての運指練習が功を奏し、自称尾道で一番うまいギタリストとして町内に君臨していました。好きなアーティストはモンキーズやレターメン(オロロ)。ごりごりのロックというよりは美しいメロディーを持ったポップな曲が性にあっていました。
  ブルースは苦手でした。自分でギターをキュンキュンやっている分には、なるほど気持ちが良いのですが、どうも現世が日本人の僕にとっては借り物というか、心から共鳴できない壁があるのです。
  レッド・ツェッペリンはわかります。好きでした。初来日はたしか高校2年の時。なんと広島から日本ツアーがはじまるという、絶好のチャンスでしたが、試験やら何やらで行くのをやめにしました。これはあとで相当悔やみました。この頃になると出版メディアも今と変らないくらいに充実し、ロックの輸入盤も通販で買えるようになりました。「ブラインドフェイス」の輸入盤は、女の子の裸が問題になってバンド写真がジャケットになったバージョンがあり、そっちの方がいいやと注文したら裸が来て微妙な心持ちになったのを覚えています。 
  高校3年生になると、バートバカラックのように自分のオーケストラをしたがえて、世界を旅したいと思うようになっていました。また自分はロックバンドのギタリストとしても通用するのではないかという大妄想もありました。オーケストラとロックバンド、この相容れない二つの音楽を両手に抱えたまま、僕は音楽大学に進学することを決意、家の生活が困窮していなかったのが幸いし、ピアノ三昧の半年と一年(浪人してしまった)を過させてもらい、日本大学芸術学部音楽学科作曲科へすべり込むことに成功しました。
  どっちの方向に行くにしろ、バッハからはじまる作曲の基本を学ばないことには始まらないと当時は真剣に思っていました 。
  まずは軽音楽部に入って新しいタイプのバンドを作ろう。そう思って入ってはみたものの、部内はハードロックとブルースの信奉者ばかり。その時はまだ、プログレッシブ・ロックに出会っていませんでした。

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  1972-1975 バンド遍歴 花本 彰

大学一年生
  僕の最初のプログレ体験はYESです。アカデミックな作曲理論をバンド活動に活かそうと親のすねをかじり、作曲科のある大学に入学した僕はある日、緑色のレコードジャケットを得意げにかかえて校門から入ってくる友人、和田輝夫とばったり出くわします。彼は後に新月のギタリストとなる津田治彦の幼馴染みで、僕と同じく軽音楽部の新入部員でした。
  僕は当時フィフスディメンションのようなコーラスものや弦を主体としたオーケストラアレンジに興味をもっていました。YESはその両方のツボにぴったりはまりました。またブルース色がうすいことにも僕は好感を持ちました。当時のロックンロールバンドやブルースバンドの周辺の人々に漂う、ある種の集団暴力的な雰囲気に馴染めなかったのです。

「OUT OF CONTROL」
  やがて和田と僕は意気統合し「OUT OF CONTROL」という名のバンドを組みます。僕は授業で習った十二音音階やメシアンなどのモード音階を使ってさっそくオリジナル曲を書き上げました。ここに当時の練習テープがありますが、とても聞ける代物ではありません。はっきり言ってひどい曲です。このインストバンドではフォーカスのコピーなどもやっていました。四人囃子は難しそうなのでやりませんでした。そして忘れもしない高田馬場の歌声喫茶!でのファーストライブ。和田のギターはギブロンだかギャバンだか忘れましたがギブソンの偽物でした。そこで彼は見栄をはり、津田から本物のストラトを借りたのでした。それが僕と津田との出会いでした。和田は慣れないストラトに大苦戦。見ろ、いわんこっちゃない。おまけにドラマーの本坊はビータ(バスドラムをたたく機具)を忘れてきました。彼はコンサートが終わるまで、バスドラを右足で蹴り続けていました。

 この記念すべき初ライブの後、僕たちは意を決してヤマハ楽器店に「プログレッシブロックのヴォーカル募集」のはり紙を出しました。それから数週間たった頃でしょうか。「あのう、ヤマハで見たんですけど」という電話がかかってきました。北山真です。
  彼はボブ・ディランやドノバンなどのフォーク系からプログレッシブロックへと表現の方向性をかえようとしているところでした。この時すでに彼のノートには、おびただしい数のオリジナル曲が書き連ねてありました。歌詞は繊細極まり、声にはすばらしい説得力がありました。
  こうしてやっとバンドらしいバンドになった「OUT OF CONTROL」で、僕と北山の共同作業が始まりました。
僕は初めて歌入りの長尺物を書き、彼がそれに壮大な詩をつけました。タイトルは「殺意への船出」。後にその物語の続編ができ、こちらの曲は「Part1」という呼び方をするようになりました。しかしこの曲は人前で一回演奏されたきり、なんとなくお蔵入りになってしまいました。
  世はプログレ全盛期でした。その頃のプログレッシブロックは、今まで聞いたことのない音、使ったことのない手法、やったことのない組み合わせなどで満ちていました。ロックバンドという形態を借りた音の実験室でした。そしてロックからつまはじきにされていた文科系の人々の救世主でもありました。座って聞いても怒られないロック、それがプログレでした。
  1973年から僕は、生活拠点を米軍の横田基地がある福生に移しました。俗にいうハウス(一般に貸し出されている米軍の元宿舎)です。一軒家なので、ある程度の防音さえすれば自由にバンド練習が出来ました。まわりには同類の仲間(変人)が大勢住んでいて、独特の文化を形成していました。東京アンダーグラウンドで有名になったピザ屋のニコラスも近くの国道16号線沿いにありました。僕のイタリアン初体験もこの店でした。大きなアメリカ兵と強いトマトソースの味をかすかに覚えています。

「セレナーデ」
  それからいろいろあってギターの和田とベースの津久井などが抜け、かわりにギターの高津昌之、ベースの鈴木清生、ドラムスの小松博吉が加入しました。確か彼等もはり紙だったと思います。はり紙はきくものです。高津氏はフリーのポール・コゾフなどを好んで聞いていました。彼の泣きのギターはバンドに「正統派ロックバンドらしい安定感」を与えてくれました。彼がソロをとるとなぜか安心していられました。ベースの鈴木は当時のフュージョンシーンのスター、ジャコ・パストリアスやスタンリー・クラークの影響を受けていました。彼はあたかも他の楽器と会話でもするようにメロディーを組立てていくのが得意です。メロディー隊とリズム隊の関係を主従の関係ではなく向かい合う関係に。新月の「白唇」で聞けるような、そのプチジャズ的なアプローチ法は彼がこの「セレナーデ」時代に培ったものです。
  「セレナーデ」のライブは2年の活動期間中、たったの3回! この異常さは、自分たちが音楽の神に帰依し奉仕している快楽のみでつき進んでいたことを物語っています。バンド内セラピー状態です。
そのおかげで「殺意への船出Part2」「回帰」「青い青空」「絶望への架け橋」(後に「ちぎれた鎖」というタイトルに改名)など、沢山の曲を作ることができました。僕たちには、いつでも音を出せる環境と豊富な時間がありました。

「HAL」を知る
  ある日「OUT OF CONTROL」時代のギタリスト和田からカセットテープを受け取りました。ギターの津田治彦とドラムの高橋直哉が参加しているプログレ・インスト・バンド「HAL」の演奏テープでした。プロやんけ。キーボード、ギター、ベース、ドラムという構成で、とにかくそのオリジナリティーと演奏技術の高さには圧倒されました。何々風という形容詞が全く思い浮かばないほど独創的な曲調でした。そしてその堂々たる演奏ぶり。COOL!! 僕は自分たちのバンドとの落差にがく然としました。やっぱり練習中は「ポテチン」とか言って笑ったりしてないんだろうな、うちみたいに。そして彼等も「セレナーデ」のテープを持っていて、気にいっているようでした。
  そして、この二つのグループが、あるプログレ・イベントでジョイントすることになりました。「セレナーデ」の出番の前、客席でその圧倒的な演奏を聞きながら 僕は、彼らと一緒にバンドを組めないものかという強烈な思いを持ちはじめていました。

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  1976-1977 新月始動 花本 彰

「新月」結成
  僕はある日突然「セレナーデ」を脱退したいと言い出しました。どんな理由をつけたのかは、もう覚えていません。世界に通用するプロフェッショナルなグループを作りたい。その思いで頭はいっぱいでした。たぶんその前にHALのメンバーと何回か連絡を取り合っていたのでしょう。僕は「セレナーデ」脱退後すぐに津田・高橋組と合流し、新しいグループをスタートさせています。メンバーは花本彰(kbs)、津田治彦(g)そして高橋直哉(drs)の3人。
  メンバーに「セレナーデ」で一緒だった北山真(vo)と鈴木清生(b)の名前がないことに驚かれる方もいらっしゃると思いますが最初は3人からのスタートでした。鈴木は僕より前にセレナーデを脱退していました。
  北山のすばらしさは充分わかっていましたが、唯一ピッチに問題がありました。それはとても由々しき問題でした。大部分の善男善女は音程の確かさに大きな音楽的価値を見い出すからです。
「セレナーデ」はその日以降、何人かのメンバー補充を試みましたが適任者がおらず、高津、北山のデュオ・ユニット「牛浜ブラザース」へと収束していきます。

 一方、新グループの補充メンバーの方はすぐに見つかりました。津田・高橋組と同じ青山学院大学の仲間、遠山豊(vo.g.kbs)です。彼はルックス、スタイルとも抜群でした。ジェフ・ベック似。マルチプレイヤーでもある彼はそれぞれの楽器のサポート役として大活躍し、アルバム制作が決まってからは、新月のマネージャーに転向して新たな才能を発揮してくれました。
  僕たちは曲を書きためながら、補充メンバーを捜し続けました。新しいベーシストを何人か試しましたが、鈴木の後では誰が弾いても何かもの足りず、最終的には鈴木の加入が決まって一件落着。その頃はもう「新月」という名前を名乗っていたと思います。 

 問題はリードヴォーカルです。江古田のライブハウスでパフォーマンスをしているおもしろいやつがいるという情報があり、見に行ったこともありました。後にヒカシューとしてデビューすることになる巻上公一氏でした。彼は白いつなぎ姿で股にくっついている蛇口から水を出して飲む行為を続けていました。目指している方向が違いそうで、彼には声をかけませんでした。
  女性ヴォーカルも試みました。ここに当時のカセットがありますが「せめて今宵は」がまるでオペラのアリアのように朗々と歌われています。他の男性ヴォーカルを入れて音楽コンテストに出場したこともありましたが、審査員からは完全に無視されました。

 ヴォーカリスト選びは難航していました。
  確かにみんなピッチは正確です。しかし、高い声が出たり音程が確かであっても何かが欠落している。何が足りないのだろう。津田は「うーん」とうなるばかり。「鬼」や「白唇」など主要な曲はすでに書きあがっていました。

 新しいバンド、新しい曲が求めている声はどんな声なのか。
  それは訴える力をもった声です。曲と拮抗する強度をもつ声。強度とは力強さのことではもちろんなく、その人の内的経験の豊かさ、人を見る眼差しの深さのことです。欠落している者だけに見える光、失った者だけに聞こえる歌、それをしっかり捉えることができる人でなければならない。僕と津田は二人とも、もうわかっていました。津田が、ぼそっと言いました。「北山でいいじゃん」
  新月が日本随一のプログレ・ヴォーカリストを手に入れた瞬間でした。

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  1978-1978 ライブ活動

花本 彰
  電話口に出た北山は、新月のヴォーカリストへのオファーを快く受けてくれました。実は北山は僕の新グループ「新月」のライブを見に来てくれていました。新月の曲を聞いた北山は「キャメルのような」印象を持ったといいます。当時、アマチュアのブログレバンドを受け入れてくれるハコはほとんどありませんでした。吉祥寺のDACと江古田にあるマーキー、渋谷の屋根裏、そして吉祥寺のシルバーエレファントぐらいだったでしょうか。そんなわけでこの四店のイベントプログラムには、他のプログレバンドもたくさん名を連ねていました。DACのスケジュール表に新月とマンドレイクが並ぶといった具合です。

 平沢進くん率いるマンドレイクは新月よりはるかにイマジネイティブなステージを展開していました。曲の進行に合わせて女性の声などの効果音が流れ、最後には白い巨大な球体が会場のまん中で膨れ上がっていました。マンドレンクの美術は平沢くんのお兄さんである裕さんの担当です。裕さんは白衣とサングラス姿で様々な機械操作をしていました。P-MODEL時代にも感じたのですが、裕さんが作り出すものは、いつもハンドメイド的なあたたかさに包まれていて、弟が作りだしているクールで硬質なイメージと、絶妙な対比を見せていました。彼らの演奏はずっしりとのしかかるように重く、キングクリムゾンを彷佛とさせるものがありました。ちゃんと音楽している数少ないバンドのひとつでした。また平沢くんは「新月は演奏がうまくていいね」とこぼしていましたが、僕はその言葉が不思議でなりませんでした。マンドレイクの方がよっぽどクオリティの高い演奏をしていましたから。 彼らとはその後も色々と間接的な繋がりがあり、新月後期のマネージャーであった山口裕市氏は後にP-MODELのマネージャーとしても活躍しました。

 新月に入った北山が最初に行った仕事は、全ての歌詞をチェックし、表現のクオリティをすこしでも上げることでした。餅は餅屋。僕や津田が一つひとつの音に高い精度を求めるように、彼は一言一句に深度と洗練を求めました。ただし手のつけようがないものは無視を決めこんだようです。
  この時点での新月のメンバーは6人。僕と津田、北山、鈴木、高橋、そして遠山です。「鬼」「殺意への船出」「白唇」「 せめて今宵は」「赤い目の鏡」「不意の旅立ち」といった新月の代表曲は北山加入以前からすでに演奏されていましたので、彼は新月に入った新入りヴォーカリストという立場でした。

 勿論それぞれの曲にはその曲調にふさわしい歌詞がついていましたし、実際に僕たちはこれらの曲を何回もステージで演奏してきました。しかし練習スタジオで北山が新月の曲を歌い始めた瞬間、僕は息をのみました。乾涸びた大地に雨がしみ込み、植物の種子が長い眠りから醒めるように、一つひとつの曲にいのちが吹き込まれ、その本来の姿を見せ始めたのです。
  それらは僕たちの想像をはるかに超える巨大な造形物となって眼前にたち現れました。「表現とははみ出している部分である」と定義させていただくと、新月の曲はその瞬間に個々の技 量や思惑から大きくはみ出し、暴力的なスピードで、かつて見たことのない新しい表現物としてその姿を現したのです。僕を含めたぶん全員があっけにとられ、同時に本当の「新月」の誕生を実感した瞬間でした。
  この魔術的瞬間こそが新月の全てであったと僕は思います。表現は確かに空の中で実を結んだのです。
  後日、僕はひょんなことから「イエス」のジョン・アンダーソン氏と話す機会を得ましたが、彼も「自分の音楽は空中からつかみ取るんです」という意味のことをかん高い声で話してくれました。

 しかし時は既にパンクの時代でした。ピーガブもロバフリも髪を切りました。新月も後にその波をまともに被ることになるのですが、僕たちの中ではまだまだ対岸の火事。やっと見つけた自分たちの表現を完成させることに全生活をかけていました。いやそこそこ私生活もありました。
  北山加入からライブ活動再会まではそんなに時間はかかりませんでした。北山加入記念ではないですが、江古田のマーキーでジェネシスの名曲「ミュージカルボックス」の新月バージョンをやったこともありました。活動の拠点は前述の四箇所です。当時シルバーエレファントにいた人は「2バスの巨大なドラムセットだけでステージがいっぱいになって驚いた」と回想されています。なにしろすごい量の機材でした。イギリス大好きの僕と津田はハイワットのフルセット。鈴木はサンのベースアンプを大音量で鳴らしていました。北山はマイクスタンドの中央部に照明のオンオフスイッチをくくり付け、自分自身でコントロールするという懲りようでした。

 こうして始まった第2期新月のライブ。何ごとも真心込めて繰り返せば良い結果が得られるらしく、聴いてくれる人も徐々に増えていきました。雑誌「フールズメイト」(僕たちの間では「ズルメ」で通っている)の北村昌士くんもその一人でした。幸運なことに彼は新月をいたく気に入ってくれ、色々とバックアッブしてくれました。いつもえらっそうな文章を書く彼ですが、笑顔のかわいい、ある意味単純で純粋な人でした。

 新月の練習スタジオはこの頃から、渋谷の並木橋の近くに当時あった「スタジオJ」に移ります。そしてこのスタジオで僕たちは、とても重要な人物との出会いを果します。後に新月のレコーディングディレクターとなる森村寛くんです。彼は高橋くんや遠山くんが所属していた青学の軽音楽部のからみで新月との繋がりをもちました。森村は当時このスタジオの専属ミキサーとして、サウンドクラフトの16チャンを縦横無尽に操っていました。
  「ズルメ」の北村くんと「スタジオJ」の森村。この二人は後に、新月メジャーデビューへの大きな鍵を握ることになります。

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