花本 彰
電話口に出た北山は、新月のヴォーカリストへのオファーを快く受けてくれました。実は北山は僕の新グループ「新月」のライブを見に来てくれていました。新月の曲を聞いた北山は「キャメルのような」印象を持ったといいます。当時、アマチュアのブログレバンドを受け入れてくれるハコはほとんどありませんでした。吉祥寺のDACと江古田にあるマーキー、渋谷の屋根裏、そして吉祥寺のシルバーエレファントぐらいだったでしょうか。そんなわけでこの四店のイベントプログラムには、他のプログレバンドもたくさん名を連ねていました。DACのスケジュール表に新月とマンドレイクが並ぶといった具合です。
平沢進くん率いるマンドレイクは新月よりはるかにイマジネイティブなステージを展開していました。曲の進行に合わせて女性の声などの効果音が流れ、最後には白い巨大な球体が会場のまん中で膨れ上がっていました。マンドレンクの美術は平沢くんのお兄さんである裕さんの担当です。裕さんは白衣とサングラス姿で様々な機械操作をしていました。P-MODEL時代にも感じたのですが、裕さんが作り出すものは、いつもハンドメイド的なあたたかさに包まれていて、弟が作りだしているクールで硬質なイメージと、絶妙な対比を見せていました。彼らの演奏はずっしりとのしかかるように重く、キングクリムゾンを彷佛とさせるものがありました。ちゃんと音楽している数少ないバンドのひとつでした。また平沢くんは「新月は演奏がうまくていいね」とこぼしていましたが、僕はその言葉が不思議でなりませんでした。マンドレイクの方がよっぽどクオリティの高い演奏をしていましたから。 彼らとはその後も色々と間接的な繋がりがあり、新月後期のマネージャーであった山口裕市氏は後にP-MODELのマネージャーとしても活躍しました。
新月に入った北山が最初に行った仕事は、全ての歌詞をチェックし、表現のクオリティをすこしでも上げることでした。餅は餅屋。僕や津田が一つひとつの音に高い精度を求めるように、彼は一言一句に深度と洗練を求めました。ただし手のつけようがないものは無視を決めこんだようです。
この時点での新月のメンバーは6人。僕と津田、北山、鈴木、高橋、そして遠山です。「鬼」「殺意への船出」「白唇」「 せめて今宵は」「赤い目の鏡」「不意の旅立ち」といった新月の代表曲は北山加入以前からすでに演奏されていましたので、彼は新月に入った新入りヴォーカリストという立場でした。
勿論それぞれの曲にはその曲調にふさわしい歌詞がついていましたし、実際に僕たちはこれらの曲を何回もステージで演奏してきました。しかし練習スタジオで北山が新月の曲を歌い始めた瞬間、僕は息をのみました。乾涸びた大地に雨がしみ込み、植物の種子が長い眠りから醒めるように、一つひとつの曲にいのちが吹き込まれ、その本来の姿を見せ始めたのです。
それらは僕たちの想像をはるかに超える巨大な造形物となって眼前にたち現れました。「表現とははみ出している部分である」と定義させていただくと、新月の曲はその瞬間に個々の技 量や思惑から大きくはみ出し、暴力的なスピードで、かつて見たことのない新しい表現物としてその姿を現したのです。僕を含めたぶん全員があっけにとられ、同時に本当の「新月」の誕生を実感した瞬間でした。
この魔術的瞬間こそが新月の全てであったと僕は思います。表現は確かに空の中で実を結んだのです。
後日、僕はひょんなことから「イエス」のジョン・アンダーソン氏と話す機会を得ましたが、彼も「自分の音楽は空中からつかみ取るんです」という意味のことをかん高い声で話してくれました。
しかし時は既にパンクの時代でした。ピーガブもロバフリも髪を切りました。新月も後にその波をまともに被ることになるのですが、僕たちの中ではまだまだ対岸の火事。やっと見つけた自分たちの表現を完成させることに全生活をかけていました。いやそこそこ私生活もありました。
北山加入からライブ活動再会まではそんなに時間はかかりませんでした。北山加入記念ではないですが、江古田のマーキーでジェネシスの名曲「ミュージカルボックス」の新月バージョンをやったこともありました。活動の拠点は前述の四箇所です。当時シルバーエレファントにいた人は「2バスの巨大なドラムセットだけでステージがいっぱいになって驚いた」と回想されています。なにしろすごい量の機材でした。イギリス大好きの僕と津田はハイワットのフルセット。鈴木はサンのベースアンプを大音量で鳴らしていました。北山はマイクスタンドの中央部に照明のオンオフスイッチをくくり付け、自分自身でコントロールするという懲りようでした。
こうして始まった第2期新月のライブ。何ごとも真心込めて繰り返せば良い結果が得られるらしく、聴いてくれる人も徐々に増えていきました。雑誌「フールズメイト」(僕たちの間では「ズルメ」で通っている)の北村昌士くんもその一人でした。幸運なことに彼は新月をいたく気に入ってくれ、色々とバックアッブしてくれました。いつもえらっそうな文章を書く彼ですが、笑顔のかわいい、ある意味単純で純粋な人でした。
新月の練習スタジオはこの頃から、渋谷の並木橋の近くに当時あった「スタジオJ」に移ります。そしてこのスタジオで僕たちは、とても重要な人物との出会いを果します。後に新月のレコーディングディレクターとなる森村寛くんです。彼は高橋くんや遠山くんが所属していた青学の軽音楽部のからみで新月との繋がりをもちました。森村は当時このスタジオの専属ミキサーとして、サウンドクラフトの16チャンを縦横無尽に操っていました。
「ズルメ」の北村くんと「スタジオJ」の森村。この二人は後に、新月メジャーデビューへの大きな鍵を握ることになります。
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