DISC 4
HAL
01 ボーデンハウゼン (曲/鎌田洋一)
02 トリプレット・カラーズ (曲/HAL)
03 悲しみの星〜魔神カルナデスの追憶 (曲/鎌田洋一)
04 オープン ・ビフォー・ノック (曲/鎌田洋一)
HALとは(各曲の解説ではなくバンドとして解説しようと思う) 津田治彦
1970年に高校の1年だった私は、非常に変わった性格や才能のあるクラスメートに恵まれていた。
ひどく歪みながら早熟な彼らは、マルクスから始まり果てはマルキ・ド・サドや19世紀末から20世紀初頭にかけての幻想小説と言われるものに耽溺している者が多かった。
その頃はパソコンもゲームも無かったので、体育会系でない私たちには、音楽を漁ったり妄想にふける時間が嫌と言うほどあった。
こんな教室は今思えば異様なもので、まるで次元が歪んでいるような、正気と狂気が同居するような雰囲気を醸し、また私はそれを眺めるのが好きだった。
そのなかでも、ひと際狂気を放ち、音楽の才能や趣味も近い鎌田君という友人がいたが、この友人はへらへらと笑いながらELPのレコードを2.3回聞いただけでエマーソンと同じことをピアノで弾き出す人間だった。
当然、半分狂人扱いだったので精神科に通わされ、処方される向精神薬のせいなのか本人の素養だったのか、妄想がひどくなり高校2年の半ばで退学してしまった。
私と彼との友人関係では、そんなことはネガティブなことではなく、これ幸いと放課後は頻繁に彼の自宅で音楽漁りと妄想にふけるのが習慣となった。
また、この友人が趣味にしていたのがラブクラフトやアーサー・マッケンという、かなり危険な幻想文学で、これらの作家群は19世紀末からのオカルト・ムーブメントの理解には良かったものの、ラブクラフトなどは読むと実際に異形のものが視覚化するなど、実害と言えるものもあった。
このような体験を共有していると、この友人がさして狂気に染まっているとも思えなくなり、平日の午後はジェファーソン・エアプレインからジミヘン、アイアン・バタフライ、ブルー・チアーなどなにか狂気じみた要素のある音楽ばかり聴いたりコピーしたりしていた。
これは無邪気にも、これらの音楽がドラッグ・カルチャーの申し子だなどいうことは知らなかったにも関わらず、正確に「選択」していたのは世紀末のオカルト・ムーブメントから派生した文学の影響であり、これは今考えて見れば、全く「正しい」道だったと言う他はない。
お互い、耳は良かったようなので手当たり次第に耳でコピーした曲を何時間も弾き続けて会話もしないような日々もあり、どういうわけか突然、鎌田君は譜面を書き出した。
それは何かと聞くと、「アーサー・マッケンに指令を受けた」ようなことを言い出す。
1頁めをなんとか私がベース、鎌田君がピアノで弾いてみると、なにか聴いたことのないような、少しELPに近いようなものだった。
この曲は、いつのまにか友人は数頁になるまで書いて完成させ、マッケンの著作中の人物である「サー・ボーデンハウゼン」という禍々しい名前になった。
このような日々が、半年ほど続き、似たようなプロセスで4曲ほどが完成したが、たしかにそのどれもが世紀末の幻想小説の色を備えていたし、鎌田君も私もなぜそうなったのかは正確にはよく分からなかった。
ただ、気が付くとそこに曲が出来ていて、それらはいままで誰も聴いたことが無い類のものだった。
既に、私たちは高校3年を終えようという年齢になり、しばらく一緒に当時はまだちらほらあった、キャバレーの箱バンというもので「修行」を積み、その間、それらの曲は寝かされていた。
その後、私がやはり大学に行こうとして、入学した大学は音楽が盛んであり、早速いろいろな軽音楽クラブを覗いてみたところ、ひときわ強力なオーラを放っていたのが、後の新月のドラマーの高橋君だったのだ。
勿論、私は直感的に彼とバッテリーを組むことを勝手に決めて、そのクラブに居付いたのだった。
高橋君は当時、なかなか派手なロックの王道を行きつつテクニカルなスタイルだと思っていたので、暖めていたオカルティックな長い組曲をやってみようとは、しばらく言い出せないでいた。
しかし、ある時なにかの折りにデモで録音していたカセットを聴いてもらうと、意外にもひどく気に入ってくれたので、早速鎌田君を大学に呼び、部室で練習しようということになった。
こういうときは、よくしたもので丁度手が空いているベーシストに、清水一登氏の友人だった桜井君がいて、
とうとう寝かせていた曲が実際のアンサンブルで演奏できることになった。
桜井君のドライブ感は、あまり日本人としては類型を見ないもので、少しロシア近代クラシックの風味だったスコアに独特のドライブを加味し、より素晴らしいものとなった。
彼のスタイルは、インプロ曲である"Triplet Colors"ではっきり聴くことができる。
この、鎌田、高橋、桜井、津田のユニットはそう長くは続けられなかったが、今思えば新月以前としては奇跡的なものであった。
このときの平均年齢は、22歳にはなっていなかったように思う。
Serenade
05 ちぎれた鎖 (詩・曲/北山真 曲/花本彰)
北山:原題は「絶望に架ける橋」というものだったが、あんまりなので今回変えた。記念すべきセレナーデのデビュー作(業界的にはデビューしていないが)。PFMを思わせるリフは花本によるもの。すでにシズオ(Bs.)のフレージングの非凡さが顕著に表れている。
花本:この曲は米軍基地の町福生の、俗にいう「ハウス」に住んでいた頃に作ったものだ。詩と歌メロ部分が北山、間奏が僕という変則的な曲作りは「回帰」と同様で、今聞き直してみると、他人のパーツをただ繋ぎ合わせるという責任所在の曖昧さがかえって良い方向に作用し、ほっとするようなおおらかさを醸し出している。追い込んでいない曲の良さとでも言おうか、アマチュアらしいと言ってしまえばそれまでだが…。ともあれ、二十歳前の青年たちの初々しい思いと福生という町の解放感がつまった一曲である。
高津:私がセレナーデに加入して最初にリハーサルを行ったのがこの曲と記憶している。そのメロディの美しさとピアノによる華麗なフレーズとの調和、それに「ちぎれた鎖を拾い集めて 再びひとつに 繋いでしまおう」と始まる歌詞に背筋が震え、圧倒された曲である。この曲を聴いた時に、私はこのバンドが日本一のクオリティを持つ存在である事を確信し、その一員になれた事に感動したのであった。そして中間部に奏でられる喩えようもなく美しいシンセリフ。終章近く、世界の崩壊を告げる一方で、再生の萌芽を暗示させるテーマが出現し、再びシンセの妙なる調べが希望への含みを残しつつフィナーレを迎える。
この曲にはギターはあまり必要ないと判断し、必要最小限しか弾いていない…つもりだったが、これも聴き直して驚いた。随分と積極的に演奏に関わっているではないか。「回帰」でも聞かれる高津独特の擬似エコー奏法(笑)はさておき、シンセリフに絡む旋律の事である。そうだった。他の楽器とメロディラインがかぶらないように、と慎重に音を選び、構築していったのであった(やはり30年近く前の事、忘れている事は山ほどある)。そしてこの曲はセレナーデの代表曲と言ってよいと思う。この曲にはセレナーデのすべてが詰まっている。セレナーデとは何? の答えがこの「ちぎれた鎖」である。
06 回帰 (詩・曲/北山真 曲/花本彰)
北山:ものの5分で作った曲だが、人気が高い曲である。前半のやる気のない地声ボーカルは曲のシンプルさを強調したつもりだが…。最後に北山・高津がアーアーでハモるのは恥ずかしいが、そのあとの高津の白眉のギターソロで帳消しとなっている。メロトロンが単調なのはたぶん私が弾いているからであろう。
花本:マイナーコードの下降リフにメロトロン、プログレここに極まれりといった曲調だが、この曲で共有できる気持ちはとても大切なものだと思う。「わたしは此処に属していない」という圧倒的な孤独感と共に、「わたしはもっと大きなものに属している」という微かな希望にも出会えるからだ。
高津:この曲を一度でも聴いたことがある人は「これは高津のギターのために書かれた曲だ」と確信することだろう。しかし私が加入した時にはすでに出来上がっていた曲で、実際、私を加えたリハーサル時には、他のメンバーは隅々まで完璧に演奏できていた。…ということは私の前任者も演奏、少なくともリハーサルはしていたはずで、もし音源が残されているならぜひ聴いてみたい。もちろんギタリストによって全く違った表情を持つ曲になるはずだからである。
この曲に於いてギターワークに一切注文はなく(それどころか、ソロ部分の長さはこれで良いか、短すぎないか、など気遣って聞いてくれた)、全く自由に弾いていいということであったし、私もこの曲に惚れ込んでいたので、インスピレーションの湧くままに、感情の全てを込めて弾くことができた。結果、ギタリスト高津の代表曲になっていると思う。また、他のギタリストによる演奏を聴いてみたい、と書いたが、一方で、私こそがこの曲の魅力を最大限に引き出せるギタリストであるとの自負もある。そうするとむしろ「この曲は高津のギターのために書かれた」と言い切って良いのかもしれない。傲慢とは思いつつも。
そういえばこの曲のスコアを手渡され、リハーサルを始めた時に「まるで自分のために書かれた曲のようだ」との印象を覚え、武者震いしたのを思い出す。クレジットにはない(と思う)が、ボーカルのハモリは私である。実は、ギターに関してはベストプレイと思えるこの曲のテープ(音質はひどく、ミストーンも少なからずあるが)を最近発見し、時折聴き入っては、一人悦に入っているのだ。ムフフ。
07 終末 (曲/花本彰)
花本:メロトロンという楽器のすばらしさにつきる。20世紀最大の発明はエレキギターと、このメロトロンではなかろうか。
08 青い青空 (詩/北山真 曲/花本彰)
北山:ラグタイム風の軽快なピアノが始まると、あーこれは小品だなと普通誰もが思うが、そうは問屋がおろさない。リズム、テンポを変え、最後にはメロトロンまで入りやはり大作となってしまう。小松(Dr.)の小技が光る。
花本:いわゆる「できちゃった」曲。
高津:これは私が加入してから書かれた曲である。例によって花本君が突然「こういう曲が出来たので、歌詞を募集します」と言い放ち、北山君が確か1週間後(つまり次の練習日)に早くも詞を書き上げてきたと思う。「風の歌は続き 終わりのない夢を歌う 繰り返し…」と、メロディと絶妙にリンクしている歌詞には感心せざるを得なかった。おそらく初めて曲を聴いた時にはもうこのフレーズが浮かんでいたのだろうと思われる。
これはそれまでの花本君のどのタイプの曲とも異なり(というより、音楽全体のどのジャンルに属するの?)、彼の超弩級に幅広な作曲能力に唖然とさせられたものである。そんな訳であるから、私としてはどんなふうにギターを弾いてよいものやら皆目見当がつかず、「えーい、これはもうジャズ風に弾くしかないでしょー」などと破れかぶれ、本能の赴くまま(苦笑)、いいかげんに弾いているのだが北山君はこの曲に於ける私のギターを「高津のベストプレイ」と言って憚らない。えええ? ホントーかああ??
先日何十年ぶりにこの曲を聴いてビックリしたのだが、何と私はワウワウペダルを使用しているではないか! ワウを持っていた事すらすっかり忘れていたので、私の耳には実に新鮮に響いたのだった(大笑)。前述したが、この曲にも指定されたフレーズは殆んどなく、自由に弾かさせてもらった。新月に於いてはこの曲のようなフレーバーは失われており、ここで感じられる解放感がセレナーデの特性のひとつとなっている。つまり片隅にでも常に青空は見えているのだ。
09 殺意への船出パート1 (詩/北山真 曲/花本彰)
北山:最も古い北山/花本作品のひとつ。冒頭の歌詞に注目。いきなり「夜」、「海」、「星」という三大モチーフが登場する。これに「雪」が加わると新月。珍らしくシャウトしてます。最後の最後にピアノのバックに聞こえるのはジュディガーランドだったか?
高津:パート2と同じく北山+花本作の緩急に富んだ曲を清生・小松の鉄壁のリズムセクションが支え、高津のギターが絡む、という典型的なカタチのセレナーデサウンドである(この曲に関して私は大して貢献していないのだが)。このタイプの曲に特化したのが新月であり、セレナーデは母胎というよりは本隊、新月は別働隊と言えるのである。がははは(そ、そんなあなたランボーな!)。
それはともかく、花本君の斬新、かつリズムの起伏に富んだ曲とアレンジは言うに及ばずだが、北山の詞の外にある壮大な物語に想像をこらしてほしい。これは私の想像だが、北山にとっておそらくこの曲は、彼の頭の中にある大長編スペース・オペラの中の一挿入曲なのだと思う。それは当然パート2へと流れてゆき、さらに露にされるのだが、それはまだほんの序章にすぎないのかもしれない。
しかしこの曲に於いても花本の作曲が先のはずで、それに着想を得てストーリーを思いついたのか、物語が既に北山の中にあったのかは定かでない。どちらにしても花本・北山双方の才能が互いを刺激し、理想的に機能していたのは間違いない。それがセレナーデだったのだ。
10 回帰〜鬼 (曲/花本彰)
花本:聞いていただいた通り、「鬼」の最初のモチーフは間奏部分だった。すべてはこのモチーフから始まったのだ。
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